春分(しゅんぶん) 2017年03月20日(旧暦02月23日)18:28
≪北海道から台湾へ≫
私は台北の青田街かいわいをよく歩く。緑豊かな街並みのあちこちに骨董や古本を扱う上品な店が点在する。何年か前にこの街に古い日本建築を生かした飲食店(青田七六)が登場したときにも訪ねてみた。屋根瓦の美しい苔が印象的だった。この住宅は日本統治時代の台北帝国大学で応用菌学の教授を務めた足立仁の私邸だった。周辺には似たような和風住宅がいくつも残っていた。多くが帝大などの教官の私邸跡である。
帰国して足立教授のことを調べるうちに、北海道大学文書館の山本美穂子さんがまとめた「台湾に渡った北大農学部卒業生たち」(2011年)という論文と関連展示の報告の存在を知った。読んでみてたいへん驚いた。現在の北海道大学の前身である札幌農学校、東北帝国大学農科大学、北海道帝国大学の各時代を合わせて何百人もの農学研究者が台湾の各地に赴いて教育者、研究者、指導者として働いていたのだ。任地は台北の総督府もあれば、地方の試験場、中学校もあり、多方面にわたる。足立教授もその一人だった。私は北海道人でありながら、戦前・戦中のこの台湾と北海道との深いつながりを知らなかった。
札幌農学校は日本で最も古い歴史と実績のある農業高等教育機関だった。だから多くの関係者が台湾に赴いたのは不思議ではない。しかし、台湾総督府は日本全国から優秀な農業研究者、指導者を台湾に招いていたはずだ。そのなかで札幌農学校から北海道帝国大学に至る北海道人脈がどの程度の重みを占めていたのか。私はこれから勉強したいと思っている。
それにしても、厳寒の北海道から酷暑の台湾に転勤を命じられた人々と家族らの生活の苦労は並大抵ではなかったろう。クーラーも航空路も新幹線もない時代である。赴任者の大半は勤務に精励し、部下や教え子から慕われたようすがうかがえる。台湾に骨を埋めた人も少なくない。
北海道で学んだ研究者が台湾という遠隔地に大挙送り込まれた事実は、大きく見れば日本の「帝国」としての一面を示しているといえよう。一方で農業という最も基盤となる産業に多くの北海道人が貢献した歴史が、現在の台湾における親日感情の背景の一部になっていると思えなくもない。
≪從北海道到台灣≫
我常在台北青田街一帶活動。充滿著綠意的街道上,到處都是販賣骨董或是舊書的有格調的店。幾年前,這街上開始有個活用日本舊建築的飲食店(青田七六)時,我也去看過了。屋瓦上美麗的青苔讓我印象深刻。這個住宅是日據時代在台北帝國大學擔任應用菌學教授的足立仁私邸。周邊還留有不少相似的和風住宅。大多是以往帝大等教職人員的私邸。
回國後,我開始研究了一下足立教授,這才發現到有由北海道大學文書館山本美穗子所整理的論文「到台灣的北大農學部畢業生」(2011年)及相關展示報告的存在。稍微看過後,嚇了一大跳。現在北海道大學的前身札幌農學校、東北帝國大學農科大學及北海道帝國大學的各時代加起來,有好幾百人的農業研究學者以教育者、研究者或是指導者的身份,被派到台灣各地工作。工作地點有的是台北總督府,也有的是地方試驗場或是中學校,範圍很廣。足立教授也是其中一人。我是北海道人,卻不知道戰前・戰中的這個台灣與北海道有那麼深的關連。
札幌農學校是日本最具有歷史及實績的農業高等教育機關。所以許多相關的人到台灣,也不是什麼不可思議的事。但應該是台灣總督府從日本全國招集優秀的農業研究者、指導者的。在那其中,從札幌農學校到北海道帝國大學的北海道人脈,到底佔了多重的比例,今後我想來研究一下。
即使如此,從嚴寒的北海道被調職到酷熱的台灣的人們及其家屬,生活應該不是普通的辛苦。因為是沒有冷氣、沒有飛機航線也沒有新幹線的年代。從資料中可以窺見,到任者大多是很勤奮工作並被部下或是學生所尊敬的。不少人也埋骨在台灣。
在北海道學習的研究者,卻被送到相隔遙遠的台灣的事實,從大局上來看,可以說是為了展現日本身為「帝國」的一面。一方面,在所謂農業這最基礎的產業上,許多北海道人做出貢獻的歷史,也不難想像是現在台灣親日情感的一部份背景。
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春分/24節氣之第4 |
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